お参り巡礼:山本八幡宮

お参り巡礼

こんにちは!
やすなが ひろきです。
今回は大阪府八尾市やおしに御鎮座する山本八幡宮さんにお参りしました。

山本八幡宮:ご由緒

山本八幡宮ご本殿
朱色が映える
神社名山本八幡宮(やまもとはちまんぐう)
御祭神應神天皇(おうじんてんのう)
鎮座地大阪府八尾市山本町おおさかふやおしやまもとちょう一丁目二番十六号
創建年代享保きょうほう元年(1716年)
祭日夏:七月十四日・十五日
秋:十月十四日・十五日

享保元年(1716年)に「山本新田」と言う村が新村として成立しました。同年に山本新田の開発者、山中正水氏・本山重英氏らによって石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうより神霊を勧請かんじょうし、村の鎮守として分祀ぶんしされたことが山本八幡宮のはじまりです。
その後の享保13年(1728年)に本山氏から地主をついだ住友氏の尊崇と保護を受けて近代に至ったとあります。
また明治30年代に政府によって統合合祀とうごうごうし(神社整理とも呼ばれる神社の合併政策)が実施された際に度々の廃社になろうとしたのを不思議にかわして今日まで存続すると言った歴史を持ちます。
昭和15年(1940年)の社務所の新設から始まり、第二次世界大戦戦火からの復興や、平成5年(1993年)の八尾市からの都市整備の要請への協力を経て、平成9年(1997年)に現代の姿となりました。

御祭神:應神天皇

山本八幡宮さんの御祭神は應神天皇です。(「応神天皇」と表記されることが多いですが当記事では山本八幡宮に従い「應神天皇」と表記します)應神神天皇は第14代仲哀天皇と神功皇后を両親に持つ第15代天皇で、古事記では「品陀和気命ほむだわけのみこと」「大鞆和気命おおともわけのみこと」、日本書紀では「誉田別尊ほむだわけのみこと」などの御神名を持っており、山本八幡宮では「誉田別尊ほむだわけのみこと」としてもお祀りされています。
また神功皇后の「三韓遠征」の際に胎内にあったことから「胎中天皇」とも称されているとのこと。
御陵は大阪府羽曳野市誉田おおさかふはびきのしこんだにあります。

應神天皇は4世紀末から5世紀にかけて実在したと考えられています。内外の政治に深く関心を持ち、文教の奨励・耕地の開発・灌漑かんがい整備の構築(田畑に水を引くための水路)・交通路の整備などに尽力されていました。そのことから、文化興隆・殖産興業・交通発展など、ご利益の広い神さまです。また「胎中天皇」と称されていることからも安産にもご利益があると崇敬を受けています。
ちなみに應神天皇の在位中は日本や朝廷と大陸との交流が深く、應神天皇を訪ねて渡来人や帰化人が多かったそうです(はた氏やあや氏の祖など)。

應神天皇:八幡信仰

ここでは八幡信仰について山本八幡宮さんのご由緒をもとに紹介します。
八幡信仰は八幡神を信仰する神社信仰で大変広く普及しており、そのはじまりは宇佐(大分県)だとされています。八幡信仰の発生は古く海神・鍛冶神・ヤハタ(地名)神などの説もありますが、やがて應神天皇を中心的に据えた神格へとなっていきます。

八幡神は極めて古い時代から霊験のある神さまで、奈良時代の聖武天皇(第45代)の大仏建立時や多くの国家の大事にはご神徳を発揮したため、八幡宮大菩薩としても崇敬を集めました。

そして清和天皇(第56代)により、貞観元年(859年)に山城国(現在の京都府)男山に勧請され、翌年に石清水八幡宮の建立となり王城鎮護の神さまとして朝野の崇敬を受けるに至りました。
また八幡神は源氏の氏神となり鎌倉に鶴岡八幡宮が建立されました。

ここからは山本八幡宮さんのご由緒を離れて個人的に調べたものです。
発祥地である宇佐の地は大和朝廷の九州拠点であり飛鳥時代には朝廷の崇敬を受けました。他方で、壱岐や対馬など九州では朝鮮半島による「刀伊の入寇(1019年)」や二度にわたる「元寇(1274年と1281年)」により島民の多くが命を奪われる悲惨な歴史がある地でもあります。こうした歴史と島民への想いが中世時代における應神天皇を中心に神功皇后をはじめとした神さまをお祀りする八幡信仰の興隆へとつながったのかもしれません。

最後に

山本八幡宮境内にいらっしゃる河童さん?

山本八幡宮は「山本新田」という村の鎮護として勧請されました。山本新田以前は河内国若江郡かわちのくにわかえぐんに属していました。若江郡には当ブログでも紹介した若江鏡神社わかえかがみじんじゃがあり、そちらでは仲哀天皇と神功皇后をお祀りしています。河内は應神天皇のお膝元でもあったので八幡さんを勧請するに至ったのは必然だったのかもしれないですね。

山本八幡宮から徒歩10分ほどに鎮座する万願寺八幡神社。
こちらの御祭神は「八幡大神」となっている。


やすながひろき



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